(純情の別サイド)
(とても薔薇かつ不純)





 ノック、先の二、三時間を無駄にしたことを払拭する為に思考します。

 名前。先輩は俺の名前を呼ばない。お前とか、てめーとか、呼ぶ。そう言えば名乗ったことあったっけ、俺。
 ──もし、先輩が俺の名前を知らないのなら、本当に滑稽な話だなあと思った。そりゃあ先輩もだけれど、正直、俺が。

 俺も先輩の名前を呼んだことはない。勿論こっちは、故意だ。名前くらい知ってはいるし、つまり脳に刻み込まれてはいるのだけれど、決して呼ばない。

 そう、野良猫に名前をつけると手放しがたくなるじゃないか。例えばその猫を誰かがミケと呼んだって、猫は自分をミケだとは思わないし、俺だってそれをきっとミケとは呼ばない。
 多分、同じようなもんだと思う。なんか全然違う気もしてきたけど。
 とかく、俺にとってその玩具に名前なんて必要なかった。玩具は玩具で俺の名前なんか興味もなかった。
 先輩は、俺の下で鳴いて、ぎしぎしと骨を歪ませるみたいなその行為で泣いてくれれば良いのだ。俺の先輩は、何にしたって先輩でしかないのである。



 甘ったるく生臭い空気に完全な嫌悪を溶かしながら、俺は不快ではないものを求めて思考する。どこでどう考えて脳内一回転で結局先輩まで行き着いたんだったっけ。覚えてない。手繰り寄せた自分のワイシャツに鼻先をつけて、吸い込む。いつもの俺の匂いと、埃と、苦い煙草の匂いが混じった匂いがした。
 こびりついた焦げや錆をなんとか落としたい一心で、深く潜る。この気持ちに名前をつけるならどうしようか、あーあ、心底どーでもいい。そこらにまるめた精子まみれのコンドームくらいどーでもいい。取り敢えず吐きたいなあ。理由はまだ無い。名前も無い。

 すげーぼけっとしてそんなことしか考えてなかったら、隣でまだシーツ以外何も纏っていない女に「何を考えていたの?」とか言われてなんかめんどくさくなって「エロいこと」とか答えたら向こうがまたその気になっちゃってキスとかしてきて、それが更にくそだるかったから、ごめんあんたのことじゃない、ってゆっちゃった。
 一方的に甘ったるかった空気に、ヒビが入る。そっからずるずると溢れる汚い何か。ずるずる。ずるり。

 ぶんなぐられた。彼女的にはひっぱたいたつもりだったのかも。そんなこと、どーでもいい。頭がんがんする。綺麗でもなんでもなかった女は、さっさと服着て出ていった。当たり前だ。

 その女のことを考えてなかったのは本当で今更変えようもなくて俺は嘘なんか吐いちゃいない善良な市民です。裁判にはかけられない筈だからまあもうなんでもいっか。その甘い香水は変えたほうが良いよって教えられなかったのは悔やまれます。それが一番どーでもいいな。

 殴られたとき最初に浮かんだのもあの女の顔じゃなかったんだ。正直。頭ひっぱたかれて思い切り頭突きされて鳩尾蹴られてそれから煙草貰ったあの雨の日を思い出す。

 彼女がいなくなったあと、俺は盛大にため息を吐いた。はぁあ。弾みで吸い込んだ空気はたるい匂いがまだしてた。彼女の香水。
 たいして不細工だったわけでもないのだが、やっぱあの香水は嫌いだったな。あと喘ぎうっさいし、色々残念だったと思う。思い返して思わず笑った。しかも俺、病的細身な女が好みなんだった、実は。あとひんにゅーが好きよ。

 俺は取り敢えず、そいつにビニール袋でも被せてヤったら楽しいかなあと思ったり思わなかったり、したわけだ。真っ最中に。
 サイテー。ほんと俺サイテー。はいはいどーもない。一晩の我慢と殺人を天秤に掛けたら我慢が勝るのは当たり前で。目を逸らして女の匂いだけを追った。あの煙草の匂いを、どこかに探すんだ。
 だけど吸い込んだのはむせ返るような匂いで。変えたほうが良いよ。あんたはもうすこしつんとした匂いをさせたほうが、まだ、かわいくなるんじゃねーの。言ってやれてたら、今、少しはこんな気分でいなくて済んだだろうか。結局考えるのは俺の快不快である。


 嗚呼、俺は頭がおかしくなっているらしい。なにもかもおもしろくない。本当なら甘い香水も嫌いじゃない。なのに、なのに、ぐるぐるする。多分、その前にあの人の煙草を浴びたからだ。そうだ、そうにちがいない。彼の煙草は苦い匂いがする。

 頭が痛い。やけに甲高いひいひい言う声が耳にこびり付いて離れなくて、俺の名前を何回も呼んでは勝手にイキまくるしで、なんか苛々してた。ソウタ、ソウタって。うるさい。うるさいよ、お姉さん。

「結局、名前だよ、な」

 ぽつんと呟いて、寝転がったまま、床から手探りタオルケットを引き上げる。このタオルケットは遠くにあったからか、こいつからは自分の匂いしかしなかった。甘くもつんともしない、慣れたそれ。そしてそれは、とても冷たかった。

 もしも彼女に、俺あんたの名前知らないや、って言ってたらどう思ったかなあ。泣いたらちょっとはそそったかなあ。
 他人の泣き顔、好きなんだよね。特に先輩の泣き顔は不細工だけど好き。あんま泣かないから、先輩は嫌いだけど。

 寒くなってタオルケットとシャツを抱える。苦い匂い。ふ、と。
 ふと、今更になって萎え萎えの脳でギリギリ思いついたエロいことは、無論先程の女のことじゃなくて、あの人を脱がした時にだけ見える不健康な膝の白さだった。

「う、わ」

 どくん、どくん。不規則な心拍に、俺は中学生男子かと頭を抱えて死にたくなる。なんだか世界が生臭い。どーでも、いい。


(どーしたって、さ)
(先輩は、俺の名前を呼ばないんだ)




- mono space -