夕刻。傾く日に僕はそうっと灯りを点けながら、外を見る。鮮やかな夕焼け、必定、今日の一番星は綺麗に瞬くに違い無かった。
 すぐ脇の椅子に腰掛ける彼女は、そんな橙色の光を気にもせずに、本の頁を一つ捲る。僕は其の本を覗き込み、一つ呼吸をする様に呟いた。

「雨が降れば良いな」

 僕が然う言うと、彼女は読んでいた本から目を上げ、少し困った風に笑む。何故、と訊く様に小さく首を傾げながら。こんなに綺麗な夕焼けなのに、今日の明星は必定美しいわ。その声を代弁するかの様に、彼女の耳に掛かっていた真黒い髪がしゃらり、と、落ちる。真直ぐで黒々とした其れは、濃い赤をした彼女の着物によぅく馴染んだ。
「ただ、思っただけさ」
 再び彼女の読む本を目でなぞりながら言えば、彼女は再び視線を本に戻し、はらはらと頁を捲る。そして、手を止めてから瞬間僕を伺う。然う、其れだよ。僕は瞼を少し臥せる事で頷きに変える。彼女は悲しそうに瞳を揺らしながら、また、本の頁を元に戻した。それは柔らかな否定に近く、長い睫毛は彼女の瞳を聢と隠してしまう。

(兄上、僕は第六段の芥川が好きだよ。在り来たりだけれど)
(仮令、喰われてしまうのだとしてもかい?)
(其れでもだよ。……兄上はどれが好きなのさ)
(俺はね、梓弓の段が好きだな)
(ふぅん。女は結局男の知らぬ所で自決してしまうとしても?)
(然うだよ。俺は、其れが酷く好きだ)

 彼女の持つのは、伊勢物語だった。最初は兄上に教えて頂いた物語だったけれど、今ではすっかり僕等二人の気に入りだ。彼女はゆく螢の段が好きで、よく読んで居た。そして、きらりとする瞳で小さく、螢は良いわね、と語るのだ。僕にしか届かぬような、視線の通る距離の中で。

 僕達に、言葉は余り必要で無かった。否、言葉は必定、邪魔だったのだ。彼女は殆ど口を利かない娘で、僕は他人との関わりが大層苦手で、其れが僕らの需要と供給を満たしたに過ぎない。幼馴染みと言って正しいかは分からなかった。馴染みと言うよりも、例えば、癒着に近く。
 ただ互いに此処、僕の家の、兄の用意した書庫でこっそりと本を読んで居れば、其れだけで幸せだった。

(此処は、君の逃げ場だよ。此処は現つでは無いよ。君の呼吸の苦しい時、僕は此処に居る)
(僕は此処で、君の夢だけを詰め込んで待って居るのだよ)

 僕は彼女の夢で在ったし、彼女は僕の夢で在った。僕等は決して一緒に成り得ない夢同士なのだ。然う言うと、なんだか浪漫な感じがした。感じがしただけで、僕らは決してそんなまやかしにだけ息出来る程、生きられる程、強くも弱くも無く、強いて言うなら夢では無かった。

 然う。
 彼女は、明日、居なくなってしまう。

 僕等が夢を騙る間にも、大人達は現実を語る。彼女の幸せとか言う巫山戯た物の為に、僕と彼女の夢は打ち壊されなくては成らないらしい。其の、彼女の幸せ、とは。

(隣の御嬢様は嫁に行かれるらしいじゃないか)
(──へ、え)
(御前もそろそろだろうかね、嫁を貰うのも)
(馬鹿だなぁ、家に来るような女は居ないだろう、兄上)
(はは、俺が結婚して居ないからと卑屈になるんじゃ無いよ)

 そろそろな訳が、あるか。僕は然う叫んで遣りたかった。彼女は未だ子供じゃあないか。僕等は、子供だろう。年端行かない娘を余所に遣って、何が幸せだ。御前達大人の悩むことが一つ減ると、ただ其れだけじゃあ、無いか。変り者と呼ばれる娘を、何処かに隠してしまいたいだけだろう!
 兄は僕の言いたい事を全て分かった様な顔をしながら、素知らぬ振りで酷い事を言うのだ。良いかい、御嬢様の幸せを願うのなら晴れてくれて良かったと囁くのだよ、と。其の意味の分からない程、僕と兄上は遠く無かったから、止めたかった。


「なぁ、もしか、今夜雨が降るのなら、僕と一緒に何処か遠くへと逃げてしまおうよ」

 僕の最も好む、伊勢の中では有名とされる、芥川の段。叶わぬ相手である女を攫おうとして、女を連れて逃げるのだけれど、結局嵐の中、男の知らぬ間の一瞬で女は鬼に喰われてしまうと言う、破綻仕切った物語。

(ねえ、下らない事を言っても良いかな。伊勢の、芥川をしようよ)
(君を連れて僕は走るんだ。息の切れて喋れない程必死にさ。其れって迚も素敵でないかな?)
(あはは、大丈夫。僕は君が小さく首を傾げれば伝わるし、僕は君を鬼には遣らないよ)
(其れじゃあ話が破綻してしまうって? 僕は、君を連れられる理由が欲しいだけだもの。ずるくなんか、ないさ)

 雨が降ったと或る日、そうして僕は彼女の手を引いて駆け出した。裏の林を、濡れるのも厭わずに。彼女は仕方が無いなあと言いたげだったけれど、其れでも楽しそうに着いて来てくれたのだ。僕等二人して其の日は叱られて、次の日僕だけ風邪を引いたものだから、君は珍しく声を上げて笑った。あの無邪気な笑顔を、僕は。

「今夜は、雨が降るよ」

 僕の言葉を通し理解したらしい彼女は、一瞬だけ目を見開く。淡白な表情の中に沢山の言葉を拾えるのは、僕だけの筈だ。僕しか、彼女の幸せ等知らぬ筈なのだ。この狭い部屋の中での幸せが無くなると言うのなら、僕と君は此処から逃げ出さなくてはならない。

 彼女の察した通り、僕の望みはこれだけだ。彼女には夜露に濡れて光る草を無邪気に不思議がって欲しい。彼女には永遠に然う在って欲しい。ずうっと、ずうっと。もしか、然うで無くなるのならば、(──喰われてしまえ、と?)否、其処まで狂気に走れる気もしなかったが、併し、彼女が居なくなる位ならと思わなかったと言えば嘘になる。僕の目一杯の破綻の物語。

 然う、しよう、逃げてしまおう。僕は彼女の手から伊勢を取り上げて傍らに置き、代わり、その華奢な手をそっと包む。夕焼けよりも部屋の灯りが勝り出した中で、彼女の透明な瞳と視線がぶつかる。未だ幼さの残る彼女の瞳、そして其の中に映る僕も、未だ、子供なのだろう。

 揺らめく彼女の視線が、読めない。真っ直ぐと、何かを伝えようとする目が、曖昧で不安で読めない。其れから徐に、彼女は、きつと結んだままであった口を、開く。

「──あたしは、ゆく螢で構わないの」

 恋を口に出さずにその苦しさに患って死ぬ少女で、在りたいの。彼女は僕の手を解き、傍らの伊勢物語を手に取った。
 彼女の言葉を、声を、久方振りに聞いた。相変わらず、可愛げの無い声をして居た。少女にしては少しばかり低く落ち着き過ぎた声音。

「今夜は、ずぅっと晴れるらしいですね」
「酷いな。そんなこと、知っていたよ」

 彼女はもう、夢では無かった。現つから逃がしてばかりだった僕よりも先に、彼女は行ってしまうのだった。



(綺麗な宵の明星だ、兄は言いながら笑った)
(晴れて良かったと、もしも僕が言えたのなら、梓弓の様に彼女は僕に死んでくれたのだろうか)
(真横、蛍が掠めて飛んで行く。彼女は居ない)



plan:青人草
title:夕星

参考:伊勢物語(岩波文庫)
(芥川:六段、梓弓:二十四段、ゆく螢:四十五段)


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