星だ。そう直感した。
 彼は冷え切った、凍てついた星だった。星だ。その一言だけが頭の中に残った。私は知らない。こんなにも恐ろしく出来上がった光景を、他に。
 異常という単語の似合う情景だっただろう。絵画の中で妄想に消費されるのに似合うものだった。けれど、目の前で起きていた。瞬きをしたかどうかも覚えていない。覚えているのは、呼吸を止めていたということ。彼は無機質な様子で、自分の行動を眺めていた。音はなかった。

 大学内にはいくつかの自販機が設置されている。ラインナップに目新しいものはないが、通常の価格よりも少し安く置かれるために、私もよくお世話になっているものだ。秋も半ばを過ぎたこの時期、自販機は中身を入れ替えられ冬らしい飲み物が並ぶ。レモネードは私の気に入りだ。
 そうして入った温かい飲み物たちの隙間、何故かいつまでも450ml缶の三ツ矢サイダーが入っていた。ペットボトルよりも安いからか、ある程度の需要があるらしく、年中変わらない商品のようだった。寒くなってきたこの時期でも、夏の匂いを残すように未だ自販機の一番上に陣取っている。

 彼の手には、その件の三ツ矢サイダーが存在していた。彼のすぐそばにある自販機で売っていたものだろう。甘ったるい匂いと少しの刺激を持つ清涼飲料水。
 彼はそれを傾け、彼の目の前に座り込んだ幼さの残る少年に注いでいた。頭から、ぼたぼたと。銀色の缶から落ちていく透明な液体は使用用途を間違えられたままに、重力に逆らわず落下する。
 甘く、きっとべた付くだろう水が、少年の髪を濡らし、頬を濡らし、肌を伝い、最後はコンクリートにひたひたと落ちて染みていった。ぱちぱちと弾ける夏に良く似合う炭酸水も、秋も半ばの木枯らしの中では、酷く攻撃的だった。風が一つ。

「随分とつまらない奴なのだね、君も」

 漸く缶の中身がなくなったらしく、からんと缶を放り出してから一言、それだけ呟いた。彼の声はまだ少しだけ高く、少年らしさを残していた。
 サイダーを目一杯浴びた男の子は、裏切られたような目を一瞬してから俯いた。少年は声を失くした迷子と言ったところ。我ながら頭の悪いことを考えていることを自覚しながら、無理矢理彼らを見て見ぬふりをして自販機に寄ろうとする。
 私はこいつに用事があったのだ。こつんとコンクリートにあたってヒールが鳴った。少年は私に気付いたらしく、思い切り此方を睨む。惨めな姿だな。さっきまでの絵に描いた幻想の様な光景は、私の存在と少年の意識ひとつでただの醜い現実にすり替わった。
 彼の方はきっと端から私に気付いていたのだろう。此方に見向きもせず、ただ、少年を見下ろしていた。星の目。宇宙は黒々とし過ぎていて、私たちはそこでは呼吸ができない。凍結して破裂してしまう。地球上でさえこんなに爛れるのに。

 関わらないのが良い。関わろうと思って関われるものでもないけれど、とにかく、彼はきっと駄目な生き物だ。私は少年よりもそれを知っている気がして安心した。そして無様な少年は見事に彼に食われた。非常に分かりやすい話。
 しかして、一体何人目だろう。私は財布の中の小銭を掻き集めながら思考する。此処までの光景に出くわしたのは初めてのことだったけれど、彼が他人を泣かすのを趣味にしようと思っているらしいことは知っていた。理由は問わない。泣かせられれば満足なようだった。嫌われることすら時に厭わずに。
 かろん、こん、数えるのも億劫になっていくつかの小銭を適当に放り込む。すると、大体のランプが点いた。私はあまり迷うことなく、一つを選ぶ。つまりは、あのサイダーを。背後が動く気配。彼らを気にしようとしている私を、私は無視して、赤色に光るボタンを押す。がこん。音と同時に彼が私を覗き込んだ。真っ黒が私を吸い込みに来る。
「悪趣味な女だ」
「お互い様でしょう」
 先の気配は、少年が立ち去ったものだったらしい。振り向くと、コンクリートには軌跡のように水たまりと点々と続く滴の跡が残っていたけれど、それだけだった。
 何事も無かったかのようにではない。何も残さなかった。彼がそういう人間だと理解しているのだ、あの少年は。そのことに同情する振りをした。少し、恐ろしかった。

 彼は当たり前のように私の買ったサイダーを取り出し、躊躇することなくプルタブを開けた。炭酸を開放するときの小気味いい音と一緒に、しばらく嗅がなかった独特の香料が香る。科学的な匂い。見るからに季節外れの飲み物を、彼はそのまま飲んでしまう。夏の似合わない男だ。ちなみに再三言わせて頂くなら、これは私のもの。
 彼が缶を手放すのを待ちながら、私は所在なくなって携帯を取り出した。メールが入っているわけでも着信があるわけでもない。他人との連絡が面倒になって電源を落としてばかりいるからだ。殆ど不要となった携帯を持ち歩く理由はひとつ。
 私の携帯には、黒と銀の地味なストラップがついている。私の白い携帯には、お世辞にも似合っているとは思えない代物。小指で引っ掛けてチェーンを弄ぶと、彼が少しだけ笑った気がした。
「似合わないね、それ」
「誰の趣味よ」
 うーん? 彼が困ったように笑う。今度は気の所為でなく意図的に。不器用な笑い方だ。彼は笑顔が似合わない。彼には、笑うなんて人間のすることは、似合わない。先の冷たい顔の方がいくらかまともで、まだ見られたものだったと感じて、笑った。私にも笑顔が似合わないと良い。なんて。

「何笑ってんの」
「何って、別に。貴方が笑うから」
「僕は、君が笑わせるから」
 笑わせてなんか、と言いかけたところで、ぴぴぴぴぴぴ、と、初期設定のままであろう着信音が響いた。彼の携帯だ。
 私は息をのむ。彼はそんな私なんか見やしないで電話をとった。もうサイダーに興味はないらしく、私に缶を返してから、応答。少し水滴の付いた缶は驚くほど冷たく、それを持っていた彼の手は体温を感じさせない。
 彼の携帯には、少し前までストラップがついていた。銀と黒の、彼に良く似合うものだった。はいもしもし。一体誰だろう、詮索はしない。面倒事はお互いにごめんだ。
 私は何処かに閊えたままにしていた言葉を全部まとめて、二酸化炭素を含んだ液体と一緒に嚥下する。喉のあたりがひりひりと焼けるように感じて、そういえば自分が炭酸を嫌っていたことを思い出した。身体にも良くないあんなものを飲む生き物の気が知れない。例えば、彼。

 電話が終わると、彼は愛想程度に笑って(さっきより、もっと不快な笑みだった)見せた。銀と黒の似合う笑み。嫌いだと思ってみる。嫌いだ。この炭酸水のようだ。
「彼女?」
「訊く? それ」
「それもそうね、なんでもないわ」
 ゆらゆらと、これで躱しているつもりならとんだお笑い草だ。私からした彼がつぎはぎだらけなら、彼からした私など、ただのつぎはぎにもならない。

「本命。大事にしないと居なくなるわよ」

 いなくなれ。居なくなってしまえ。そして、彼が破綻してしまえばいい。私だけの望みではないはずだ。彼は今まで何人ものひとに恨まれて、そのうちの何人かはきっと彼女のことを恨んだだろう。
「やだな、消えないよ」
 どこから来るのだ、その不確定な自信は。そう思いながら、彼の目の中に一瞬の不安を見つける。宇宙は無重力だな、と、わけのわからない言葉がまた頭の中を過った。彼を見ていると、私は私でないようだ。
 携帯に入った連絡はやはり彼女からの物だったらしく、彼はそのまま立ち去る。「さよなら」や「またね」の言葉一つ残さなかった。彼は何も残さない。
 私に残ったのは、結局自分の買った不要な缶が一つきり。一口飲むと炭酸は少し抜け始めていた。これは私だ。二酸化炭素の排出すらできない呼吸のままならない、私。
 二酸化炭素は大気に還ったのに、一体いつまでここに居るのだろう。私。彼の宇宙を思いながら、缶を傾ける。否、彼の星を思いながら、口にでなく、大地に。透明な液体は少しはねながら落下する。まだ夏を引きずったままのサイダーを、地球に還元した。何処か流星のように、秋の冷えた太陽を反射して瞬く。

 私は彼に、墜落した。


『星へ落ちる』
 金原ひとみ




- mono space -